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国家予算の8分の1を稼いだ日本史上最大の「金持ち」、安田善次郎について(その一)

   



日本史上最大の「金持ち」

いつの時代でも日本にはとんどもない「金持ち」がおり、その時代の経済を、日本を引っ張ってきた。
現在ではソフトバンクの孫正義氏、ユニクロの柳井正氏。
動乱の明治期なら三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎、弥之助兄弟。
江戸時代なら越後屋を創立し、三井財閥の源流を築いた三井高利など、様々な豪商、ビジネスパーソンが存在した。

しかし、もし「日本の歴史上、一番の金持ちは誰か?」という問いをうけるなら真っ先に「安田善次郎」を挙げるだろう。
彼は20歳の時に、富山から江戸に出て、第三銀行や安田銀行(現:みずほファイナンシャルグループ)、帝国海上保険(現:損保ジャパン)、明治安田生命などを中心とした日本史上最大の金融財閥をたった一代で作り上げた。

彼が亡くなった大正10年(1921年)当時の資産は2億円を超えていると言われているが、その当時はエリート官僚の初任給が70円で、年間国家予算は約16億円だった。
つまり、彼は国家予算の8分の1の富をたった1代で築き上げたのだ。

ちなみに2014年、フォーブス日本長者番付で1位の孫正義の資産は約2兆488億円で、これは国家予算である約96兆円の2.1%にしか相当しない。
こう考えると安田善次郎がどれくらい化け物レベルで金持ちであったかがわかる。

今日はそんな彼の略歴を紹介していこう。

安田善次郎の略歴(幼少期)

1838年に富山県の農家に生まれた安田善次郎は三好清行という平安中期の高名な学者を遠祖だと言われており、
そのため安田家は代々、”三”と”善”という字を大切にしていた。
そして富山城の城下町に住むようになってから安田家当主は代々、”善次郎”を名乗った。
ちなみに安田財閥を創立した安田善次郎は5代目である。

 

ただここで疑問に思って欲しいのは、「苗字」があるということだ。
日本史の授業で習ったかもしれないが、江戸時代の武士の特権とは「帯刀」と「苗字」であり、そこらへんの農家の住民は「〇〇村の田吾作さん」みたいな呼び名だったのだ。

 

それなのになぜ、農家の安田家が”安田”と名乗っているか。
実はこれは苗字ではなく、屋号でだった。家系図が残り、屋号があるということからもそこそこ裕福な農家だったことがわかる。

後に富山藩士の権利株を購入し、士籍に列し、屋号の安田をそのまま苗字にしたが、面白いことにこの幕末で活躍する人々は士農工商のちょうど「士」と「農」の間にいる人が多い。つまり、下級武士か、裕福な農家である。

坂本龍馬も土佐郷土株を持つ下級武士(生まれは商家)で、
伊藤博文も農家に生まれ、足軽の家に養子にだされた下級武士、
浅野財閥を築いた浅野総一郎も農家出身、
三菱財閥の初代総帥である岩崎弥太郎も地下浪人(武士の資格を売却した人)である。

これは割りと現在も通じていて、生まれついて地位や権力がある人や貧困にあえぐ人よりも、「高校や大学に行ける平均〜平均ちょい上」の人が成功しやすく、前述した孫正義氏(カルフォルニア大学卒)や柳井正氏(早稲田卒)もこのカテゴリに入る。

話は少しずれたが、そのような家庭で安田善次郎も生誕したのだ。
彼の父である政次郎(四代目安田善次郎)の夢は武士になることで、この夢は三十五歳の時に達成することが出来たのだが、武士の最末端の役職であり、家族を養うために半士半農の生活をせざるを得なかった。

当然、善次郎も7歳から農作業を手伝い始めた。
朝日も登らぬ早朝から田んぼに出かけ、八時に家に帰り飯を食う。
その後、木屋と呼ばれる寺子屋へ勉強に通った。

富山藩の寺子屋の特徴としては和算に力をいれており、江戸期にはそこらへんの子供でも複式簿記を取得していたと言われているから驚きだ。
富山藩は”富山の薬売り”と言われるように薬の行商で有名であり、商売人は全国を飛び回りながら、薬を売り藩財政に大きく寄与したことから、

他藩に比べ「お金が卑しい」という感情が薄く、寺子屋でもお金の計算方法を積極的に勉強させられていたのだろう。

偶然かもしれないが、このような教育が金融財閥を築いていくキッカケになったのではないか。
そんな寺子屋も5年で終了する。
12歳になった善次郎は港町への野菜や花の行商を始めたのだが、ただ売るだけではなく、「港町に野菜を売り、その代金で魚を買って、村に帰って売却すれば2倍の利益が得られる」と考え、行動し、効率的に利益を挙げた。

このような事例から、この時から商売に対する非凡の才能があったことが見て取れる。
他にも写本の内職も行うようになる。コピー機がない時代で書き写すことは立派な商売になっていた。

そんな商売に邁進する善次郎だが、性格は非常に几帳面で真面目であったと言われ、儲けたお金は全て父親に渡し、その1割を小遣いとして貰っていた。

性格は穏やかで、顔も柔和であるとよく言われていたが、彼は鳳眼(眦が深い目)を持っていた。
鳳眼を持つものは成功すると呼ばれており、その代表格は三国志などでお馴染みの曹操である。

そんな善次郎が13歳になった時、衝撃的な光景を目にすることになる。

それは両替商の代理である手代が御用金(藩の財政が困窮している時に商人に課す税)を持ってきた時に、藩の財政を預かる勘定奉行がわざわざ城外まで出迎えにいったというものである。
つまり、「士農工商」と言い、農家や職人よりも地位が低い商人でも大商人になれば、上級武士を平伏させることを幼い善次郎は見て取ったのだ。

彼はその光景を見て、千両分限者(億万長者)になるために、富山藩から江戸への脱走を試みることになる。

今日は長くなったので、ここまで。
明日また更新します。

では!

 - meiji , ,

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