わらしげちょうじゃの日記

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国家予算の8分の1を稼いだ日本史上最大の「金持ち」、安田善次郎について(その二)

   



前回の記事では安田善次郎の幼少期(12歳まで)を書いた。
今回は、青年期から日本史に代表される商売人になるという歴史を紐解いていこう。

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15歳の時に江戸へ出奔〜ある老人との出会い〜

13歳の時に、両替商の手代が勘定奉行に手厚く歓迎されたことに驚愕した善次郎は、その時は「富山藩にいてもお金持ちになることは出来ない。なんとか江戸に出たいものだ。」と密かに江戸に行く夢を抱いていた。
そして2年後の15歳になった時に、親族にも何も告げず、江戸へ出奔。
飛騨街道から中山道に入っていくのが、富山藩から江戸までの最短距離だが、途中には関所があり、手形などが必要だった。もちろん誰も言わずに、家を出た善次郎には手形なんてものはないので、彼は獣道を進み、関所を破った。

関所破りは重罪で、捕まれば厳罰は必死だから、善次郎はより険しい獣道を選んで関所を迂回した。

しかし、獣道は迷いやすい。
善次郎も迷い、途方にくれていたところ、ある老人に拾ってもらった。
事情を善次郎から聞いた老人に「私は父子二人で殆ど動物のような生活だが、その分、愛情は深く、息子が漁に出て帰ってこない時は、胸が張り裂けそうなほど心配になる。貴方も家族に江戸行きのことを言っていないようだが、家族がきっと心配するだろう。今回は一旦、思いとどまり、家族に許可を得て上京してみてはいかがだろうか?」と誠意ある忠告を受けた。
その忠告に感銘を受けた善次郎は結局、家出を中止し、家へ帰宅したが、
真面目な父が許すはずもなく、行商以外の外出を禁じられ謹慎の身となった。

その期間は3年。
いいかげん江戸行きを諦めただろうと考えた両親は善次郎の監視が甘くなりつつあった。
しかし、その実。善次郎の胸中には「やはり江戸に出なくてはならない」という思いがくすぶっており、それを友人に告げ、いつの日か江戸で名を轟かせることを誓った。

そして、18歳の時。神社の時、父親が世話になっている人の家の草むしりを命じられたのを幸いに、善次郎は友人二人と江戸を目指して、故郷を飛び出した。
その時、善次郎は二分と八百文(現在の3万円弱)を持ちだしたが、野宿を行ったり、倹約に勤めたため、江戸に到着した時はまだ二朱と八百文(現在の1万円強)が残っていたという。

この当時の国内移動というのは、本当に危険なものだった。
山道に出れば盗賊も出るし、寒さもある。コンパスや詳細な地図もないので、迷う可能性だって十分ある。

しかし、そんなリスクを承知で、善次郎は江戸へ出たのだ。
そして人入稼業(職業紹介所)を通じて、日本橋の海苔と鰹節を扱っている商家で奉公を始めた。江戸の地理、人情、商売の基本、資本金の貯蓄などを目的に奉公を行っていたのだが、家族思いで思慮深い善次郎のことである。
故郷においた家族のことを忘れることは出来なかったからだろうか。

彼は家族に向けて「私は江戸で3年間奉公をするつもりなので、安心してください」という旨の手紙を送っている。

その手紙のおかげで善次郎がいる住所がばれてしまったのだが、父は無理やり連れ戻そうとせず、一度話しあおうということで善次郎の元へ使いを出している。

そして一度富山藩に帰り、善次郎は今後の夢、なぜ江戸に出なくてはならないのか。ということを家族と膝を交えながら語った。
その結果、父は善次郎の江戸行きを承諾してくれた。
1858年に又従姉妹が江戸の湯島聖堂の昌平坂学問所に入学することが決まり、それに随行する形で再び江戸に出た。

そして、江戸に戻った善次郎は玩具屋の問屋として奉公を行った。
しかし、13歳の時に見た本両替の姿が脳裏に焼き付いていたのか、彼はその後、最初の奉公先の長男が銭両替の店を開店するということを聞きつけ、そこで働くことになった。この頃に善次郎は名前を幼名の岩次郎から忠兵衛へと改名している。

善次郎は他の奉公人とは日常の心構えから違っていた。
銭両替のように客と従業員の出入りが多い店では沢山の履き物が乱雑になっていることが常だが、善次郎はそれらを見つける度、仕事の合間を見つけて整理していたし、紙くずなどを見つけたら誰に言われずとも、見られずとも拾ってくずかごに捨てていた。

仕事の面でも朝から晩まで誠実に働いて、その才覚を思う存分に発揮したことから、奉公先に大変重宝されていた。
奉公中の給金は年に二両二分(現在の35万円程)だったが、その働きぶりからすぐに六両に昇格した。
少ない給金をやりくりしながら親元に仕送りを行い、忠実に働いていた善次郎の元に訃報が届く。
母親である千代の死であった。

家族思いの善次郎は一日中嘆き悲しんだ。彼が残した「富の基礎」という著者には「真に生涯忘れかねる一大恨事」と表現されている。
その後の善次郎はより早く名を挙げるために乾坤一擲の賭けを行う。

文久銭という銅銭の市場価格が江戸で暴落しているのにも関わらず、富山ではいまだにその価格が維持されていることに目をつけ、大掛かりな投機取引を行おうとした。
つまり、江戸で安く銅銭を購入し、富山で売却しようと目論んだのだ。
奉公仲間のツテをたどり、裕福な酒造家などにスポンサーになってもらい、現在価格で3000万円近い文久銭を購入した。

そして、文久3年の冬に秦野から富山へ出発したが、道中に猛吹雪に合い、一歩も動けなくなってしまった。このまま秦野に引き下がるしかない訳だが、銅銭を山ほど積んだ荷物は重すぎるため越後今町で預け、秦野へ己の身一つで帰った。
翌年、その文久銭を富山で売却したが、思ったような高値では売れずこの投機は失敗に終わる。

これも幕末〜明治期の企業家の特徴で、「20代でとんでもない失敗をするが復活して大成功を収める」 というものだ。
これに関してもいつか書いてみたいと思う。

結局、この失敗が原因で、結婚した鰹節商人の娘に離縁されている。
この失敗は善次郎の信頼を大きく傷つけ、本人も富山へ帰ろうかどうか悩んだりもしたが、結局江戸に残った。

傷心した善次郎はくじけることなく、
街の角の路上で、スルメを売りながら小銭の両替を始めたのだ。
小銭は多く普及していたが、両替をするとなると非常に重く、5000枚ほど集めると25kgになる。
善次郎はそんな重い銅銭を担ぎながら江戸中を動きまわり、徐々に信頼回復が行われてきた。

この働きで得た9両(現在の価格で約90万円)に、奉公先を辞めた時の一時金、それに身の回りの品を外国商館に売りつけて得たお金を合わせた25両(現在の価格で約250万円)で大量のスルメを購入し、それを江戸に持ち帰ってうりさばき17両の利益を得た。
こうして得た42両を元手に、26歳の時、日本橋人形町に小さいながら”安田屋”という店を開店する。

とんでもない投機失敗を行い、信頼とお金を失った善次郎は、1年もたたずに立ち直り店を構える一人前の商人になったのだ。
安田屋では両替業の他に乾物屋としての商売を行った。
彼は乾物屋として、両替商としても完全に後発組だったが、他の商人と一線を画した顧客第一目線で商売を行った。

毎朝4時に起き、近所の前を箒で掃き、水をまく。近所がまだ起きていない時間からその日の仕事の準備を行うのだ。
初めて来客したお客には「開店祝いの景品を差し上げますので、どうぞ知り合いにも教えて下さい」と頭を下げ、
並べた商品も良いものから売り、悪いものは全て破棄した。

この当時の商人は現在のような顧客第一主義なんてものは全く考えずに商売を投機的なものだと考えていたため、この善次郎の働きはすぐに近所で有名になった。

善次郎は店が信頼を失ったら商売が長続きしないということを知っていたのだ。
その年には68両(約800万円)の純利益をあげ、店を拡大することになった。

政府御用達になった善次郎

 

そして、またもや転機が訪れる。
1858年に江戸幕府がアメリカと結んだ日米和親条約の締結により、諸外国との貿易が盛んになったが、
欧米が金銀比率1:20だったが、江戸では1:6だった。
つまり、江戸で金を購入し、外国で売れば3倍強の利益になるということだった。
これがどれくらい歪なものかわかるだろう。

欧米商人は有り金全部使っても日本の格安の金を購入しまくった。その結果、日本の金の大部分が外国に流出してしまい、江戸幕府もついには重い腰を上げ、対策に乗り出した。

「古い良質な金を使うのを辞めてもらい、金の含有量の少ない新しい金貨を流通させよう」ということで古い金貨の流通を促そうとし、本両替に古金銀貨と新金貨の引き換え業務を委託しようとした。

しかし、世は幕末。
一時は大名がひれ伏すほどの権力を握っていた本両替もその勢いを失っていた。
その理由としては、諸国の浪人が富豪の家に入り込み、金品を奪っていく事件が多発し、それを恐れて廃業になった本両替も多かったことが挙げられる。

そんな状態では誰も古金銀と新金貨の引き換え業務なんて引き受けたくない。
だから、まだ若輩者だった善次郎にもこの話はまわってきた。

後発の両替商にとってはまたとないビッグチャンスだったことから善次郎は引き受けたかったが、あいにく資金がない。その旨を正直に政府の役人に伝えたところ、なんと3000両(約4000万円)を貸し出してくれたのだ。←幕末のこの時期は両の価値が1/10ほどに暴落している

こうして、古金銀の回収を善次郎は行うことになる。

「いらっしゃいませ」という元気の良い声が響く店内では、古金銀を目利きする鑑定係、それを百両包みにする包装係、包装した百両包に、”安田善次郎包”という押印を押す係がおり、
その一連の流れ作業は洗練され、作業が滞ることはなかった言われている。

今の百万円の帯封のように、江戸時代でも封がしてあれば百両と通じていており、この帯封を一旦解いてしまうと、再度中身を確認せざるを得なく、両替商に確認を頼むことになる。

そのため「確認し、包む」という行為が両替商の仕事の一部になっていたのだ。
特に”安田善次郎包”は間違いないとされ、非常に評判が良かったという。

この政府による要望を聞き、ビジネスチャンスを掴んだことで善次郎は毎年3000両(約3000万円)近くを稼いだ。

・幕末の世が終わり、明治政府が設立

現在の日本のように、江戸幕府にもある程度、政府と密着した商人というのはおり、政商と呼ばれており、
新しい政府が樹立されるということは昔からの政商にとっては恐れるべき事案で、
新興の商人にとっては甘苗が雨を得たような超ビッグチャンスである。

しかし、明治政府には多くの商人が殺到したかといえばそれはNOである。

というのも幕府を崩壊させた明治政府にはお金がなかったのである。

お金がない政府の要望を聞いても売掛金を回収出来るかどうかわからない、そんな状態だったから、政府が発行した国債なんて誰も購入しなかったのだ。

国債というのは政府が「お金頂戴。その変わりにこの紙をあげるね。3年後に利子つけて返すね」というものだが、これは信頼がないと全く効果がない。

革命を起こした明治政府のメンバーの殆どは30代、40代で信頼力もなく、更には旧幕府が藩札を紙切れ同然にしたり、徳政令を起こしたことを覚えている民衆も多かったことも国債が普及しなかった理由に挙げられるだろう。

多くの両替商も「国債の扱いに慣れていないもので・・・」などと言いながら国債を引き受けようとしなかったが、善次郎はその政府の窮地や、市場の混乱を承知の上で、手を上げたのだ。

しかし、その国債の値はドンドン下落し、ついには額面割れ、が起き、2年後には国債が半分の値までになってしまったのだが、善次郎はそれでも「いつかは明治政府の権威が確立し、国債が等価交換される日が来る」と信じていた。

この国債の普及がうまくいっていないことに業を煮やした明治政府は、「額面以下で国債を流通させた人には罰則を受けさせる」といった強攻策に打って出た。

これが功を奏し、急激にこの国債の価値が上昇し始めたのだ。
これまで額面以下で引き取っていた国債が急に正貨と同等になり、これで安田善次郎は莫大な利益を手中に納め、1年間で1億両以上の利益を上げ、資産を三倍にしている。

この時、善次郎は32歳。
路上でスルメを売っていた青年が6年後には日本を代表する大商人になっていることを誰が想像出来ただろうか。

このインターネットが蔓延る世界でも、6年でこれほどの大出世を行っている人は希少なのではないか。

まだ彼は止まらない。
この後も公債をドンドン扱い、明治7年には、三井財閥の中興の祖である三井利左衛門の息子で、三井銀行を創立の際に幹事を勤めた三野村利助、ホテルオークラや大成建設、プリンスホテル、サッポロビールなどを擁する大倉財閥の祖、大倉喜八郎と並んで、弱冠36歳の善次郎は秩禄公債の償還日に代表立会人として選出される。

そして、同年、当時の司法大臣の推薦もあり、晴れて司法省金銀取扱御用となり、名実ともに大商人の仲間入りを果たした。

時は1年ほど遡るが、大蔵省から国立銀行設立を勧められた。
この時、勧めた大蔵大臣の大隈重信も35歳で、勧められた善次郎も35歳と、非常に若い世代が日本を引っ張っていたことがわかるであろう。

最初は渋った善次郎だったが、結局第三国立銀行設立(後の富士銀行、現:みずほ銀行)を行った。
今では国立銀行といえば、日銀だけだが、その当時の銀行の数は153行あり、銀行の倒産なども日常茶飯事だったと言われている。

安田財閥の特徴としては、金融財閥であったということである。
日本最大と言われるその資金力を活用し、56歳の時には帝国海上保険(現:損保ジャパン)、57歳の時には共済姓名保険(現:明治安田生命)などを設立している。

しかし、事業家としても釧路地方開発や帝国ホテルの発起人、南満州鉄道株式会社への参画、日本初の電力供給会社である東京電燈株式会社(現:東京電力)の設立を行った。

彼はそれ以外にもこの国の根幹を支える事業に莫大な投資を行い、多くの会社の設立を行った。
生涯、自分を銀行家として位置づけていた善次郎は、その明治期を陰ながら資金援助などで支えていたのだが、
このことは民衆には中々伝わらない。

この時の格差は現在の比ではなく、労働者の苦労などを書いた小林多喜二の「蟹工船」がヒットした。
「明かりがなくて靴が探せんか。ではこれでどうじゃろ」と言いながら当時10万近くの価値があった1円札を燃やしている風刺画が流行った時代。

この時代の人は自分の境遇を金持ちのせいにし、彼らのゴシップに胸踊らせていた。
もちろん彼らには銀行制度や保険制度なんてものは理解の範疇外であり、大事なのは「自分たちが貧乏で、金持ちが甘い汁を吸っている」という偏重な妄想であった。

この時代のせいであろう。
多くの偉人がこの時代に暗殺されている。
安田善次郎もその1人である。

彼は健康そのもので82歳には浅野総一郎(浅野財閥の祖)に誘われ、上海やマニラ、香港などを回り、フィリピン上院議会議長や香港総督や孫文と積極的に意見交換をしている。

彼は帰国後、世界一周を行いたいと周りに言い、老人とは思えない働きぶりを続けていた。

しかし、日清戦争や大正デモクラシーを通じ、資産家に対する不満が頂点に高まった大正10年。
1人の青年が善次郎を訪ねてくる。
彼は風間力衛と名乗ったが、それは偽名で本名を朝日平吾という。
彼は神州義団という右翼組織を立ち上げ、恐喝まがいの寄付頼みをしに、名士を回っていた。
(寄付を断られたら切腹しようとするなど)

だが、彼は当時、不治の病と言われた結核にかかり、その集めた寄付金も全て治療費として消えてしまった。

そんな朝日平吾は善次郎を訪ね、労働者用のホテル設立に関する熱弁をふるい、寄付金を願い出たのだが、
その申し出を善次郎に断られた。
逆上した朝日平吾は短刀を抜いて、善次郎に襲いかかった。いくら健康体とはいえ82歳の老人である。
しかし善次郎は刺されてもなお、生命をつなぐために血を流しながら、庭に活路を求め、追いつかれた平吾に止めの一撃を食らったという。

そして、善次郎の絶命を確認した平吾は自らの首をカミソリでかっ切り、その生涯を終えた。

「金持ちでケチ」というイメージがついている安田善次郎は悲しいことに、
週刊誌などで「暗殺されて当然。朝日平吾は勇者だ」と言われ、死後も非難された。

死後の善次郎

 

前述した上海への旅行の際、
船上で丁稚の頃から親交があり、浅野財閥を築いた浅野総一郎に善次郎が送った有名な狂歌がある。

五十、六十は鼻垂れ小僧 男盛りは八十、九十。

というものだ。
その船上で善次郎と総一朗はまるで永遠を生きるかのように、何十年もかかるような遠大な計画について話したという。
百歳まで生きると豪語し、若者よりも若者らしく夢を語る老人がこの時代にどれくらいいるだろうか?

善次郎は暗殺されたが、彼の会社の多くは現存しており、その思い、歴史は脈々と受け継がれている。

海外事情を追うのも良いが、私達の足元にはこのような偉人たちがおり、彼らに学ぶべきことが山のようにあることを脳の片隅においてみてはいかがであろうか?

では。

 - meiji

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